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播野 勤●はりの つとむ
タマノイ酢株式会社代表取締役社長
1953年生まれ、大阪府出身。成蹊大学卒業後、ソントン食品に入社し財務、電算、社長室などの管理部門を担当。1979年タマノイ酢株式会社に入社。管理部長、常務、専務を経て1991年より現職。1980年より1年間、現日本生産性本部(当時は社会経済生産性本部)に出向し、日本生産性本部認定経営コンサルタントの資格も取得。播野社長就任当時、同社は多額の負債を抱えていたが、利益至上主義ではなく人間中心の経営に舵を切る改革を断行。ノルマの廃止、短期間での部署異動、社員の中から医師や調理師といった専門家を育てるフューチャー制度など、社員の個性と力を伸ばすさまざまな制度を設け、若手を育成している。若手チームが開発したお酢ドリンクの先駆け「はちみつ黒酢ダイエット」を始め、ユニークな新商品を次々に生み出している。お酢業界ではミツカン、キユーピー醸造に次ぐ、業界3位の地位。
▼タマノイ酢株式会社のホームページはこちら▼
http://www.tamanoi.co.jp/
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森 啓一●もり けいいち
株式会社フォーカスシステムズ 代表取締役社長。
監査法人、税理士事務所を経て、1998年にフォーカスシステムズに入社。常務取締役管理本部長兼経営企画室長を務め、11年より現職。
業績のためではなく、組織の活性化や社員の豊かな生活を目指す
森:タマノイ酢は1907年創業ですから110年続く老舗企業ですね。播野さんは38歳で社長に就任したそうですが、それまでの経緯を教えてください。
播野:私の家は本家ではなかったのですが、事情があって父が後継ぎになり、長男である兄がバブル期に社長になりました。ところが兄が失踪したため、私が急遽、社長の座に就いたのです。
社長就任時は大きな負債があり、金融機関がどっと押し寄せて来ました。それまでもタマノイ酢で働いてはいたものの、私は管理関係の仕事しか経験がありません。それに、そもそも私はそれまでバブリーな経営手法に反対し続けてきた立場なので、正直、腑に落ちないところもありましたね。この先どうなるのか不安でしたが、そんなことを言っている状況ではないし、家族や社員の姿を見るとやるしかないと思いました。
森:いわばマイナスからのスタートだったのですね。最初にやらなければいけないと思って手をつけられたのは、どこでしょうか?
播野:製造業は工場が大事ですが、そこにお金やエネルギーをほとんど使っていなくて、ひどい状況でした。でも、私は管理部門にいたから得意先のことも全く分からない。最初に工場に入るべきか、得意先を理解するべきか迷いましたが、まずは得意先だろう、と。
そこで稚内から沖縄まで全店を回り、わが社の商品や社員に対する思いや現状などをいろいろ教えてもらいました。配った名刺の数は3,000枚にのぼったでしょうか。
森:すごい数ですね! それだけの得意先を回って現状をヒアリングした後、工場に入られたのですね。当時の工場はどのような状況だったのでしょうか?
播野:工場は「汚い、危険、重労働でルールが無視されている」状態でした。
工場長をはじめ、現場責任者が異口同音に「工場は危険で汚い」と言うほどです。皆、「自分のところはちゃんとやっている」と言うのですが、全員がきちんとやっていれば汚かったり危なかったりしないはず。それを指摘すると、皆、下を向いてしまいます。人のせいにする空気があり、人心や人間関係が乱れているのが気になりました。
このときから、業績のために頑張るのではなく、組織の活性化や社員の豊かな生活を目指そうという感覚が芽生えました。
森:タマノイ酢の経営理念では、最初に「社員、地域社会、消費者への安全と貢献」を掲げていらっしゃいますね。
単に消費者に喜ばれる商品を作るのではなく、社員に喜んでもらいたいというのは、就任当初からの思いなのですね。
社員へは自ら行動して示す
播野:社員が喜んでくれるなら頑張ろうと思えたのです。経営理念は続いて「永続的な企業体質強化と人間組織としての活性化」もうたっていますが、最後は「社員の豊かな個性を育み生かした、生きがいのある企業風土作り」で締めくくっています。
わが社の目的は利益や売上を追うのではなく会社を大きくすることでもなく、その企業があることが社員や地域社会、消費者にとってよかったと思われる価値を持つことです。社長就任から1年間、そんなことを考えながら全国を回っていました。
五里霧中、暗中模索状態で、やるべきだと思うことをただ一生懸命やっていただけですけどね。
森:それだけ頑張っていらしても、突然の社長就任では、社員がついてこないという経験もされたのではないでしょうか?
播野:社長就任後、すぐにそのことを痛感しました。社長という役職は、もう少し偉いものだと思っていたのです(笑)。例えば、社長のひと声で皆が動いてくれるイメージです。でも、会議では東京と大阪、工場と総務が口論を始めて、「静かに」と言っても誰も聞いてくれません。
そもそも、就任当初は会議参加者の中で私が一番年下でしたから、なかなか聞き入れてもらえませんでしたね。
森:社長に熱い思いがあっても、それがうまく伝わらなかったり、ベテラン社員がこちらを向いてくれなかったりしますよね。
そのようなときはどう対処されたのでしょうか?
播野:おっしゃる通りです。これからの時代を担うのは若い人たちだから、会社の将来を考えると若い人を育てないといけない。しかし、若手社員のためにセクションを作り、活躍の場を与えようとすると、ベテラン社員が「会社を支えてきたのは俺たちだ」「自分たちをどうしてくれるんだ」と言ってきます。
全国を回りながら「俺たちのことをどうしてくれるんだ」という声を聞き、「会社を建て直したいし、皆のためにがんばりたい」と話すしかありません。社員との関係を家族に例えると、私が父親、社員は子供たちです。社員から見たら「親父が一生懸命働いていて、疲れ切っているのに今日もまた会社に行って働き、へとへとになっている」という状況でした。
そういう姿を見て初めて、ベテラン社員も納得してくれたし、そこまでやらないと本当に自分たちのために頑張っているんだと理解してくれないんですね。
森:まさに身を粉にして、説得されたのですね。社員が自分のほうを向いて来たな、いい方向に行きそうだ、という手ごたえを感じられたのはいつ頃でしたか?
播野:何を言っても嘘や口先だけのようになってしまうので、行動で示すしかなかったのです。社員たちも「分かっているけれど、しっくりこない」という状態だったのでしょう。
私は約1年半無給にして「とにかくやろうよ、一生懸命やろうよ」と歩き回っていたので、その姿を見て社員の気持ちが少しずつ傾いてきたようです。そうして決算書や業績などを気にせずに済むようになるまで、4〜5年かかったでしょうか。
やるべきことをやって、やっとあるべき姿に戻っただけですが、「真面目にやれば、それなりのものは得られる」という自信を持つことができました。
森:就任当時は社内の雰囲気が悪く、対立する部門で口論が絶えない状態だったそうですが、それにはどう対処されたのですか?
播野:例えば、品質管理課長はできあがった商品の品質をチェックするので「もっとちゃんと管理して進めてくれ」と言うけれど、工程管理課長は「そんなことやったらコストがかさんで予算通りにできない」と言う。
純粋に仕事でやり合うならいいけれど、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」という状態で、お互いの細かいことまで文句を言い合う状態になっていました。そこで2人の課長を入れ替えてしまったのです。「そんなに文句を言うなら、実際のその部署で思う通りにやってみたらどうか」と。そのおかげで2人の課長は相手の立場に目を向け、受け入れられるようになりました。
森:大変な荒療治ですね! 今まで文句を言い合う立場同士がそっくり入れ替わったら、周囲も大変だったでしょう。
播野:まさかそう来るとは思わなかったようで、工場にも衝撃が走ったようです。「揉めている場合じゃない」「他人事じゃない」と気づいてくれて、いい刺激になりました。東京と大阪で営業の関係がよくなかったので、半分くらいの社員を人事異動で入れ換えたこともあります。
森:人は悪気がなくても、立場でものを言うことがありますからね。それに、会社のことを思っているからこそ、熱くなってしまうものですよね。
今、頻繁に人事異動を断行していらっしゃるのも、そのときの経験からきたものなのでしょうか。ユニークな人事制度をいろいろ採り入れていらっしゃるそうなので、次回はそうした取り組みについて聞かせてください。