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石坂 典子●いしざか のりこ
石坂産業株式会社 代表取締役社長。
1972年東京生まれ。米国短期留学後、89年に父が創業した産業廃棄物処理会社「石坂産業」(埼玉・三芳町)に入社。99年に所沢周辺の農作物のダイオキシン騒動、産廃業者バッシングが起き、父に直談判の末、02年に社長に就任した。「脱・産廃屋」を目指し、設備投資と人材育成に力を注ぎ、全天候型独立総合プラントの導入、ISO取得、森林パーク「花木園」を始めとする環境教育拠点整備などを次々に実現させた。日本生態系協会のJHEP(ハビタット評価認証制度)最高ランク「AAA」取得、経済産業省「おもてなし経営選」選抜、財団法人日本そうじ協会主催の「掃除大賞」「文部科学大臣賞」ダブル受賞。トヨタ自動車、全日本空輸、大臣や知事、中南米・カリブ10か国大使など世界中から見学者が後をたたない。著書に『絶体絶命でも世界一愛される会社に変える!』(ダイヤモンド社)
interviewer
森 啓一●もり けいいち
株式会社フォーカスシステムズ 代表取締役社長。
監査法人、税理士事務所を経て、1998年にフォーカスシステムズに入社。常務取締役管理本部長兼経営企画室長を務め、11年より現職。
「産廃業者らしからぬ産廃業者」を目指す
森:産業廃棄物処理会社を見学するのは初めてですが、私が抱いていたイメージとのギャップに驚きました。「石坂産業さんは施設もきれいだし、社員教育も行き届いている」とは聞いていましたが、これほどとは思いませんでした。きれいな森林の中にあって空気もきれいだし、パッと見ただけでは産業廃棄物処理の会社とは分かりませんね。
石坂:ありがとうございます!まさに私が目指したのが「産廃業者らしからぬ産廃業者」なので、そう言っていただけると嬉しいです。
森:ここまで会社を育てる間にはかなりのご苦労があったことと思いますが、最初から会社を継ごうと思って入社されたのでしょうか。
石坂:そんな思いは微塵もなかったんです(笑)。
ネイルサロンを開きたいなと思いながらイベントコンパニオンをやっていた時、父から「うちの会社の事務を手伝えば」と言われたのが入社のきっかけですから。
5年目くらいから仕事が楽しくなり、10年働いたあたりで起きたのがダイオキシン騒動でした。
99年に『ニュースステーション』(テレビ朝日)という報道番組で「所沢の野菜からダイオキシンが検出された」と報道され、瞬く間に悪い意味で世間の注目を集めてしまいました。
森:週刊誌などでも大きく取り上げられましたね。でも、石坂産業さんと野菜とは関係ないように思いますし、そもそもあれは誤報だったんですよね?
石坂:後に「野菜ではなく煎茶で、しかも健康に影響を及ぼすほどではなかった」と発表されますが、所沢産野菜の売れ行きは戻りませんでした。
ヘリコプターがたくさん飛んで、「ダイオキシンを出している産廃屋が悪い」と多くの人がクレームを言いに来て、週刊誌に「石坂産業総務部の××さんはこう話す」なんて書かれて…。どこの会社だろう? と思うようなひどい会社に仕立て上げられていきました。
森:石坂産業さんはダイオキシン対策炉を導入していて、環境対策の点でもまったく問題なかったと聞いています。
まったくの濡れ衣でたたかれている渦中に、会社を継がれたわけですよね。社長就任時はどんな志を抱いていたのですか?
石坂:「永続企業にしたい」という父の志を継いでいたので、何とか継続できる会社にしたいという信念がありました。
なにせ大バッシングを受けて「この会社はないほうがいい」「ここに存在することは反対だ」「出て行け!」と言われていたんです。
継続していくことが命がけという状況でしたから、私の最初のテーマは「生き残り」ですね。
森:普通なら踏みとどまるだけで精一杯で、現状維持すら難しい状況ですね。窮地に陥ってなお、膨大な設備投資をして会社を立て直すのは相当な勇気が必要だったと思います。何がそこまで石坂さんを突き動かしたのか、興味深いです。
業界初の屋内型プラントを導入
石坂:いまだに産廃業者を「ゴミ屋さん」「捨て場」と呼ぶ人もいます。
小さい頃、「捨て場の娘」と呼ばれてバカにされたように感じたり、飯場生活をしていたせいか高級住宅街に住む友達の家には私だけ入れてもらえなかったり。子どもながらに、職業で差別されている雰囲気を感じていました。
だからゴミ屋さんと言われないために、「脱・産廃屋」を目標に掲げました。なにせまだ30歳の若輩ですから、単純発想で「見た目が大切。きれいな建物を建てたい」と思ったんですね(笑)。
森:確かに「見た目」とかイメージは大事ですね。でも、私の会社はIT業ですが、「ITらしさ」から逸脱するのはなかなか難しいです。というのも、先代から「ITを逸脱しないように」と言われたことが常に頭の片隅にあるからです。石坂さんの場合は、創業者であるお父様の賛同も得て、二人三脚でここまで来られたということでしょうか。
石坂:私の入社当時はトイレも男女共用で行きにくかったし、事務所も古かったので若い女性が働くには酷な環境でした。だから、本社ビルを新築して見た目と環境を変えることで働く人を変えたいと思ったんです。
でも、父は「余計なものを買わず、あるものを使う」主義でしたから、建て替えには猛反対されました。ほかにも、社長になって最初に高級感ある会社案内を作ろうと思って、黒い表紙を提案したら「バカ野郎!うちは葬儀屋じゃないんだ!」と怒鳴られたことも。父は倹約家だし私とは感覚が違うので、すべてがそんな調子でした。
森:創業者の大反対に遭うのは辛いですね。そんな中、焼却を止めて屋内型プラントにしたというのも、産廃業では革命だと思います。こうして御社を訪れると、煙突もなく音もせず、産廃業者というイメージとは程遠いです。いつからその発想が出てきたのでしょうか?
石坂:もともとは通りに面してプラントがあって、コンベアがむき出して通りから丸見えでした。
装置をプラントの中に入れて作業すれば汚いと言われる部分は見えなくなるし、外に粉じんや音を出さなくなります。そうして、何屋さんか分からない雰囲気にしたかったわけです。
バッシングを受けている企業だしこのあたりは市街化調整区域ということもあって、建築の許認可は難しいと言われましたが、都市計画法や建築法を勉強しながら何度も市役所に通いました。
申請段階でも差別的なことを言われたりひどい扱いを受けたこともあり、そういう部分もひっくるめて世の中を変えたいと思ったことも私のエネルギーになったと思います。
森:屋外の建物を壊して出た埃だらけの廃棄物を屋内プラントの中で処理するというのは、不思議な光景ですね。でも、石坂産業さんがゴミを出しているわけではなく、処理してもらっているゴミは私たちが出したものですよね。おっしゃる通り、世の中の意識を変える必要がありますが、そんな負のエネルギーが石坂さんを奮い立たせたわけですね。
石坂:同業の社長から「そんなにお金かけて、モトが取れるんかい」「高みの見物させてもらうよ」と笑われた時も、心底悔しかったですね。たまたま注目されてたまたまバッシングを受けて当社が窮地に立たされただけなのに、と。
だから「絶対に負けたくない」と思いました。たくさんの方の助言や県知事の後押しもあって奇跡的に1年後に許認可が下りたものの、最終的には造成も含めて40億円近いお金がかかると分かりました。でも、失敗すれば「永続企業」どころか倒産ですから、走り抜くしかありませんでした。