民間で宇宙開発に挑戦 植松電気専務取締役 植松努氏に訊く【前編】

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植松努●うえまつつとむ
1966年北海道芦別市生まれ。航空宇宙関連企業を経て1994年に父が経営する植松電機に入社。99年よりリサイクルマグネットの開発、販売を手がける。2004年、北海道大学大学院の永田春紀教授とともにロケット開発を開始。06年には株式会社カムイスペースワークスを設立し、本業の植松電機の事業と並行してロケットや人工衛星の研究開発を行っている。子どもたちの見学を積極的に受け入れており、人口1万人の町の町工場に年間1万人の小中学生たちが見学に訪れる。09年より「ARCプロジェクト」を始動。著書に『NASAより宇宙に近い工場』

 

interviewer
森 啓一●もり けいいち
株式会社フォーカスシステムズ 代表取締役社長。
監査法人、税理士事務所を経て、1998年にフォーカスシステムズに入社。常務取締役管理本部長兼経営企画室長を務め、11年より現職。

北海道で、宇宙開発に挑戦

森:植松さんはリサイクルマグネットの開発、製造販売を行うかたわら、ロケットなどの宇宙開発も手掛けていると聞きました。宇宙というとNASAやJAXAなど特殊な機関でしかできないイメージがあるので、北海道の赤平市で宇宙開発と聞いて驚きました。

植松:僕はまさにそのイメージを払しょくしたいんですよ!

宇宙開発は「国家事業」「特別な知識がないとできない」などと思いこんでいる人が多いけれど、それはマスコミや学校の先生など、宇宙開発をやったことのない人に教えられたり植え付けられたものでしかないんです。

「どうせ無理」「できっこない」と、夢の諦め方を身につけてしまうと、どんな夢に出会っても「自分は知識がないから無理」「お金がないからできない」と諦める癖がついてしまう。そんな「どうせ無理」というイメージを壊すのには、宇宙開発が一番だと思って宇宙開発を始めました。

森:なるほど、やらずに諦めてしまう世の風潮に一石を投じる意味合いもあるんですね。そもそもロケット開発を手がけるきっかけとして、植松さんご自身が大学で基礎知識を学んだりといった素地があったのでしょうか?

植松:大学でロケットの技術を学べる学科はほとんどないと思います。

きっかけはもっとずっと単純で(笑)、3歳のとき、祖父と一緒にテレビでアポロの月面着陸を見て、「じいちゃんがすごく喜んでる」「僕もじいちゃんを喜ばせたい」と思ったことですね。本屋で飛行機やロケットの本を見ていると祖父が喜んでくれるから、心の底でロケットや飛行機への思いが培われたのでしょう。

ただ、大学卒業後に一度は航空関係の仕事をしましたが、そのあとは実家に戻って父の会社に入ったので、まさか本格的にロケットに関わることになるとは思いもしませんでした。

森:赤平市は昔は炭鉱の町でしたよね。炭鉱の町にいながら、植松電機さんはずっとマグネットの開発や製造を行ってきたのですか?

植松:父は樺太から引き揚げてきて、最初は炭鉱の機械の修理をやっていました。ところがご存じのとおり炭鉱が廃鉱になって、その仕事は消えました。そこで父は自動車部品の修理を始めましたが、壊れた部品をまるごと取り換える手法が登場すると、また仕事がなくなりました。

僕が入社した後のことで、目の前で仕事がどんどんなくなっていきましたね。これはマズイと思って新しい機械を開発してリサイクルマグネットの製造・販売を始めて、今は軌道に乗っています。

「どうせ無理」という言葉をなくしたい

森:炭鉱機械、自動車部品、そしてリサイクルマグネットと、次々に違う分野の製品の物づくりに挑戦して成功させているのは素晴らしいですね。順風満帆な会社経営の中で、さらに新しい分野への挑戦としてロケットの開発も始めたわけですね。

植松:いえ、違うんです。

会社を継いで順調に売り上げを伸ばしたあとで大失敗をして莫大な借金を背負った時期もあります。全国を飛び込み営業して歩いてさんざんな目にあって、しんどくて…。攻撃的になったり人を陥れたりできるようになって、売り上げは増えました。でも、誰も信じられなくなって心のバランスが崩れてしまいました。

そんなとき、友だちに誘われてボランティアに行った児童養護施設が、自分の心や生き方を見つめ直すきっかけになりました。

森:今、ロケットの工場では年間1万人もの子どもたちの見学を受け入れているそうですが、子どもたちに夢を与える仕事の原点は、その児童養護施設での気づきにあったということですか?

植松:養護施設で虐待にあっていた子どもたちと出合った時、自分の小さい頃の記憶がよみがえりました。

僕も小さいころ先生に嫌われて暴力を振るわれたり、進路相談でも「北海道の芦別に生まれた時点で、ロケットに関わる仕事に就ける可能性はない」と断言されたりして、傷ついてきました。

僕に暴力をふるった先生がよく使ったのが「どうせ無理」という言葉です。そんなことを言う人は、自信を失ったり夢に向かうことを諦めた人でしょうが、矛先は弱い人に向かうから、弱い立場にある子どもたちが心ない大人の犠牲になるということです。

子どもたちから夢や自信を奪う「どうせ無理」という言葉を地球上から失くしたい、そのために多くの人が無理だと思っている宇宙開発に挑戦しよう、というのが僕の考えです。だから、僕の宇宙開発は売り上げではなく、児童虐待をなくすのが目的なんです。

森:宇宙開発と子どもの教育や未来を結びつけて考えているんですね。私も本業とは別に、個人的なライフワークとして北海道の芦別市でフリースクールを立ち上げ、自分の子どもを通わせています。日本の子どもたちをいい環境で育てたいという思いは私も同じです。でも、ロケット開発となると、かかる費用もケタ違いでしょう?

植松:フリースクールですか!同じような志のある方に出会えてうれしいです。学校を作るのもハードルが高いでしょう?僕も最初、ロケットの燃料は燃えやすくて爆発の危険性があるから民間では作れないと思っていました。

ところが、燃えにくくて大気中にもまき散らされない安全な燃焼を使ったロケットを研究している、北海道大学の永田晴紀先生と出合い、「一緒に研究・開発をやりましょう」と意気投合してこの事業がスタートしました。

森:奇跡的な出会いで、まさに願えば叶う、ということですね。北海道大学との共同研究はいつから始まったのですか?本業との仕事量のバランスはどのくらいの比率ですか?

植松:2005年にスタートしたので、まもなく10年目です。それ以来、会社の事業とロケット開発を並行して行っていますが、売上比率で言うとロケットはゼロです(笑)。マンパワーはロケット3割、本業のリサイクルマグネットが7割くらいの比率ですね。社員は17人ですが、仕事を分けていないので、どの社員も両方の仕事に関わっています。

森:違う分野の仕事なのに、専業ではなくどちらの仕事もこなせるというのは見習いたいですね。宇宙まで飛ばせるエンジンの開発も近いのでは。

植松:今、1.5トンパワーのエンジンの試験を行っているところで、これが成功すると高度60kmまで届くロケットになります。
100kmまで飛べば宇宙に届くので、あと少しですね。また、今までは機体をパラシュートで回収していましたが、60kmまで上がるとどこに落ちてくるか分からないから、データを取得した部分だけが会社に戻ってくるようにしたいと考えて研究を進めているところです。

森:ロケットではまだ売り上げが立たないということは、本業で産み出した利益をすべてロケットにつぎ込んでいるということですよね。スポンサーを募って資金協力を得ることは考えていないのですか?

植松:宇宙は南極と同じで、究極の公共の場だと思っているから、本当はビジネスに使わない方がいいと思っています。

それに、スポンサーをつけると出資者の言うことを聞かねばならず、自分がやりたいことができなくなりますよね。僕にとって宇宙開発はあくまでも手段であって、この世から「どうせ無理」という言葉や、ひいては児童虐待をなくすためにやっているから、絶対にやめたくないんです。そのためには他人の金をあてにせず自己資金だけでやる必要があるので、出資の話をいただいても全部断っています。

森:誰もが諦めさせられてしまう夢でも、実は諦めなくていいんだ、ということを教えれば未来に希望を持てるようになります。いくらいじめられても、夢があれば耐えられる子どもに育ちますね。

植松:いじめに耐えられるというより、「どうせ無理」という言葉がなくなって皆が自分に自信をもてれば、いじめる人がいなくなると思います。夢を諦めたり可能性を奪われたりすることがなければ、人をいじめたり人の自信を奪う必要はなくなりますから、暴力もいじめもなくなるでしょう。

いろいろな学校から呼んでいただいて講演したり、子どもたちがうちのロケット工場を見学に来てくれたりするようになって、僕は今、年間3万人の子どもたちに「諦めなくていいんだよ」というメッセージを届けている。それを積み重ねていけば、いつか必ずいいことがあると信じています。

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