能力を引き出す、女性マネジメントの秘訣 元全日本女子バレーボールチーム監督 眞鍋政義氏に訊く【前編】

guest
眞鍋 政義●まなべ まさよし
1963年生まれ、兵庫県姫路市出身。中学からバレーボールを始め、セッターとして活躍。大阪商業大学附属高でインターハイ優勝、大阪商業大時代にユニバーシアード優勝を経験し、1986年新日本製鐵入社1年目からレギュラーとして活躍。その後の新日鐵黄金時代を築いた。1985〜2003年全日本代表に選ばれ、1988年にはソウル五輪にも出場。2005年に現役を引退し、2009年から全日本女子代表の監督に。2010年の世界選手権で同大会32年ぶりとなるメダル(銅)、2012年ロンドンオリンピックでは五輪28年ぶりとなる銅メダルを獲得した。2016年12月よりヴィクトリーナ姫路のゼネラルマネージャーに就任。

 

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interviewer
森 啓一●もり けいいち
株式会社フォーカスシステムズ 代表取締役社長。
監査法人、税理士事務所を経て、1998年にフォーカスシステムズに入社。常務取締役管理本部長兼経営企画室長を務め、11年より現職。

五輪を逃した経験が挑戦心に火をつけた

森:眞鍋さんは新日鐵で監督兼選手というかたちで活躍され、イタリアのセリエAでも活躍されましたね。監督としても選手としてもバレー界で長く活躍なさっていますが、最初にバレーボールを始めたきっかけを教えて下さい。

眞鍋:小学生のころから王さんや長嶋さんに憧れてソフトボールや野球をしていて、将来の夢は野球選手でした。
当然、中1で野球部に入って「ピッチャーかサードかファーストだな」と思っていたら、監督から「背が高いからキャッチャーをやれ」と言われて。

それが嫌で辞めようと思った時に、バレー部監督だった担任の先生から誘われました。何せクラスで一番背が高かったので。
そこから私のバレーボール人生が始まりました。バレーボールは女性のスポーツだと思っていたから、まさか自分がするとは夢にも思っていませんでしたね。その監督との出合いがなければ、バレーボールの世界に足を踏み入れてなかったでしょう。

でも中3の時には兵庫県で一番になって全国大会に行きました。バレーボールの世界は五輪をメインにして翌年は何もなく、翌々年が世界選手権、その翌年がワールドカップと4年周期で回っています。

私は現役時代に世界選手権とワールドカップは3回出場しましたが、残念ながら五輪は1回しか行けませんでした。1996年のアトランタ五輪の時、私は32歳で代表チームの最年長でしたが、予選の最後に韓国に負けて出場権を逃しました。今でも鮮明に試合のことを覚えていて、その後もずっと悔しさを持ち続けていました。だから現役を引退した時、男女どちらでもいいから代表チームの監督になれたらもう一度五輪に挑戦したいと思っていたんです。

森:もともと女子バレーは「東洋の魔女」のイメージが強烈ですよね。ロサンゼルス五輪の銅メダルを最後に、そのあとは、なかなか勝ち上がれない時代になりましたが、眞鍋さんが監督を引き受けるにあたって「何とかもう1度メダルを」といった周りからのプレッシャーもありましたか?

眞鍋:「東洋の魔女」は1961年の欧州遠征で22連勝した日紡貝塚(現・ユニチカ)の女子バレーボールチームにつけられたニックネームです。そのメンバー主体で出場した1964年東京五輪では、5試合のうち落としたセットは1セットのみという圧倒的な強さで金メダルを獲得しました。

そんなこともあって女子バレーは注目されるスポーツなので、プレッシャーはありましたね。でも、元々私はプラス思考でプレッシャーがあるほうが嬉しいタイプなんです(笑)。そうは言っても、ずっと男子バレーの世界にいたので、現役時代は女子バレーと全く接点がなくて…。試合もあまり見たことがありませんでした。

それで、ある方から「女子の監督をやらないか」と声をかけられて、女子の国内リーグを見に行ったんです。そのとき「女子バレーってずいぶん戦術が遅れているな」と感じました。バレーボールのルールは男女一緒だから、男子から何十年か遅れて女子バレーに戦術が来るんです。男子バレーの世界の視点で「これなら戦術を変えればすぐ優勝できるな」と簡単に考えて女子の世界に入ったんですよ。そうしたら…もう戦術以前の問題で、女性の集団にビックリですよ。初めて「うわ〜っ、とんでもないところにきてしまった!」と思いましたね(笑)。

キーになる人物の見極めやアプローチも大事

森:部下が全員女性という立場の上司ですから、難しい立場ですよね。いったい、どんなことがあったんですか?

眞鍋:忘れもしない、監督就任初日の挨拶です。30人ほどの選手の前で挨拶し、「日本一を目指す」と熱く語ったんです。そうしたら、拍手どころか選手全員が瞬きもせず相づちも打たずにずっと無表情でポカーンと見ているんです。「どう思う?」と聞いても無反応です。「なんてところだ」と感じて、ちょっとまずいなと思いましたね。そこで、いろいろな女子バレーの監督さんに話を聞いて女子のマネジメントを勉強しました。

それまでの女子バレーの監督はカリスマというか独裁というか(笑)、そういう人が多かったんです。でも私は41歳にして初めて男子バレーの世界から女子バレーの世界に足を踏み入れた。女性の集団のことは分からないし、カリスマは無理だ、スタンスを変えようと思いました。時代も違いますしね。

今までは監督はガーッと言うことが多い一方通行タイプでしたが、監督も選手もスタッフも同じ方向に向いて風通しのいいコミュニケーションをとっていこうと思いました。当時の日本代表チームの最年長はセッターの竹下佳江ですが、2000年にシドニー五輪に出られませんでした。おまけに予選敗退した翌日のマスコミの報道がひどかった。「日本女子バレーが五輪に出場できないのは、背の低いセッターを使ったからだ」と書かれていました。

ちょうど私がメンバー最年長でアトランタ五輪出場権を逃したのと同じ状況を経験しているわけです。
だから竹下に最初に働きかけて、2人で「次のロンドン五輪は、人に何を言われようと必ずメダルを取ろう」と何度も話しました。

森:まずは同じ悔しさを味わった竹下選手の心をつかんだわけですね。チームをまとめるには、キーになる人物の見極めやアプローチも大事ですね。

眞鍋:その通りです。新しいチームを作るにあたって、竹下は年齢的にもキャリアの面でも十分皆をひっぱっていけますから、竹下の気持ちをつかんでおかないとチームが上手く回らないと感じました。ところがこの竹下が、なかなか「うん」と言わないんですよ。手ごわくて…勉強になりました(笑)。

森:なるほど、そこから試行錯誤を経て、女性の部下を動かすコミュニケーション術を身につけたんですね。
では次回は興味深いそのテクニックについて、詳しく教えて下さい。

信頼を勝ち取るコミュニケーション手法 元全日本女子バレーボールチーム監督 眞鍋政義氏に訊く【中編】