新たなチャレンジで道を切り拓く 日本相撲協会副理事 芝田山親方に訊く【前編】

guest
芝田山親方●しばたやまおやかた
北海道の十勝地方出身。中学では柔道部に所属。地元で行われた相撲の巡業を見学した際に体格を見出され、花籠部屋に大関・魁傑の内弟子として入門し、1978年に「大乃国」として初土俵を踏む。1981年に放駒部屋に移籍し、1987年に第62代横綱に昇進。1991年に現役引退し、1993年に芝田山を襲名後、放駒部屋の部屋付親方を経て1999年6月に「芝田山部屋」設立。日本相撲協会では2014年より副理事を務めている。NHK総合『ゆうどきネットワーク』で「芝田山親方のごっつあんスイーツ」コーナーに出演するなど「スイーツ親方」としても人気。著書に『負けるも勝ち 相撲とは-人生とは-』『第62代横綱・大乃国の全国スイーツ巡業』ほか。

 

interviewer
森 啓一●もり けいいち
株式会社フォーカスシステムズ 代表取締役社長。
監査法人、税理士事務所を経て、1998年にフォーカスシステムズに入社。常務取締役管理本部長兼経営企画室長を務め、11年より現職。

貸し渋りに遭い何度も銀行に通う

森:芝田山親方は第62代横綱(四股名・大乃国)ですが、横綱というのは長い相撲の歴史の中で何人出ているんですか?

親方:日本相撲協会が財団法人(現在は公益財団法人)となって89年になりますが、相撲自体の起源は平安朝にもさかのぼり、横綱は現在までに71人出ています。力士の数は現在は700人弱ですが、多いときは約1,000人という時代もありました。

森:親方が現役として活躍されていたころは、相撲ブームでしたね。現役引退から「芝田山部屋」を立ち上げるまで8年の期間がありますが、その間にいろいろな方向性を探っていたのですか?

親方:引退した時に、師匠(故・放駒親方)から「横綱にまでなったんだから、後は自分の人生、好きなようにやれ。
部屋を持ってもいいし、親方をやりながら飲食店を開く方法もある」と言われました。ありがたい言葉でしたが、まだ28歳だったので引退後のことは考えていませんでした。

しばらくは部屋付きの親方をやりながら、テレビ・ラジオ番組に出演しそういう仕事も楽しいと思いましたが、やはりいずれは自分の部屋を持ちたいという気持ちは持ち続けていました。

森:では、部屋付き親方を務めながら、ご自分の部屋の立ち上げを着々と進めていたわけですね。どんなご苦労があったのでしょうか?

親方:バブル前から両国国技館(東京・墨田区)は満員御礼で、そのあとにバブルと相撲ブームが到来しました。でも、僕が引退した1992年ごろにちょうどバブルがはじけました。

地価が下がったとはいえ、部屋を作るためには東京で土地を買って建物を建てて、しかも弟子を集めなければいけない。手間もかかるし、何よりお金もかかります。いろいろな銀行の知り合いを訪ねましたが、いわゆる「貸し渋り」で門前払いに遭いました。

森:企業の経営者は資金繰りで苦労することがありますが、横綱が門前払いなんて信じられません!部屋の立ち上げとなると金額も大きいでしょう。その壁はどうやって乗り越えたのですか?

親方:「部屋設立」の企画書を持って知り合いの銀行支店長を訪ね歩きましたが、「昔はよかったんだけど、今はね…」と言葉を濁されてしまって。行ってもダメ、また行ってもダメで、正直、何回泣いたか分かりません。

そんな中で、たまたま地方巡業の仕事で挨拶回りに行ったあさひ銀行(現・りそな銀行)の支店長が「うちは埼玉だからどこまでお手伝いできるか分かりませんが、書類を揃えていらしてください」と言ってくれて。計画書、相撲協会からの手当、協会から支給される弟子の養成費の予定なども細かく書き出して、持参しました。

結果、その銀行から個人に対しては破格と思える金額の融資を受けることができたのです。

森:大手銀行が融資してくれない時に、地方の銀行が手を差し伸べてくれたわけですね。どこでどんな縁があるかは分からないから、人とのつながりは大事ですね。では、それ以降はスムーズに事が進みましたか?

親方:いやいや、そこからがまた大変で。部屋をつくるとなると、まず土地探しからのスタートです。土俵、弟子の生活する場所、そして私の家族もそこに住みますからそれなりの広さが必要で、第一種低層住居専用地域、商業地域、建蔽率と容積率など、ずいぶん勉強しました。

この土地だとこの大きさしか建てられない、これだと生活場所が足りない…とあれこれ調べて検討し、やっと現在の高井戸(東京・杉並区)に部屋を構えることができました。

相撲部屋の経営とは?

森:部屋を立ち上げて16年目に入ったそうですが、一般の企業と相撲部屋の経営はどんな点が違うのでしょうか?

親方:一般企業でも相撲部屋でも、器をつくり、その中で人を育てなければいけないという点は同じでしょう。
ただ、相撲部屋は弟子を預かって一緒に生活させ、肉体的・精神的に鍛えあげて、いわば「1人の人間を作り上げる」必要があります。もちろん企業の社員も同じでしょうが、十人十色、百人百色でそれぞれの性格、体力、持ちあわせているものが違うから、人を育てあげる難しさは企業以上に大きいと思います。

森:企業の社員と経営者は感覚がずいぶん違いますが、現役力士と親方の間にも大きな意識の差がありますか?

親方:相撲を取ってる時は自分のことだけ考えればいいし、ダメならやめればよかった。でも、部屋を持つと自分の生活、人生がかかっているし、家族もいれば弟子も預かっている。重みが全く違いますね。それに、世間の目もプレッシャーになります。
「芝田山は部屋をつくったのに、もう辞めちゃうの?」と言われたくないですから。

森:実際に部屋の運営は順調だったのですか?

親方:1億円以上のローンを組んで毎月返済し、自分の給料、家族や弟子の生活、子供の教育費を捻出して…という中での経営ですから、簡単にはいきません。何よりも苦労したのは弟子の育成です。部屋を立ち上げて弟子3人でスタートしましたが、1人逃げ、また1人辞めて、半年後にとうとう弟子がゼロになりました。

森:我々でいえば、会社を作ったのに社員が全員辞めてしまったようなものですね。経営者としては考えたくない事態ですが、一般企業のように求人広告を出せば人が来るというものではないところが難しいですね。

親方:1か月後に弟子が2人入る予定があったからよかったですが、1か月間は弟子がゼロのままで、最悪の状態でした。
「どうしよう。こんなでっかい器を作ってしまったのに、わずか半年で弟子がゼロになってしまった。この先どうなるんだろう」と。寝ても覚めても不安に襲われ、平常心ではいられませんでした。

とはいえ、相撲の世界でずっと生きてきてほかの仕事は考えられないので、「とにかく10年がんばろう」と思って、我慢を重ねて何とか15年間やってきました。

森:今は順調に弟子も増え、今年は関取も2人出ましたね。

親方:第三者は皆「何とかなるよ」と言いますが、何とかするのはあくまでも自分です。その力が自分にあるのかどうか悩む部分もありましたが、こうして15年を振り返ると、「本当に、何とかなったな」と思います。

去年、師匠が定年になって弟子がうちの部屋と合併し、12人になって相乗効果が出てきましたね。運営もぼちぼち安定した状況になってきました。諦めずにひたすら目標に向かってまい進してきたことで、まずはここまでたどり着けた感じです。

* 放駒親方は定年を迎えることに伴って所属力士の移籍を行い、翌年急逝された。

相撲部屋の弟子育成のコツとは? 日本相撲協会副理事 芝田山親方に訊く【中編】