野球少年の顔から、勝負師の顔へ 元プロ野球選手・スポーツコメンテーター 鈴木尚広氏に訊く【前編】

guest

鈴木 尚広●すずき たかひろ
1978年福島県相馬市生まれ。県立相馬高校卒業後、97年にドラフト4位で読売ジャイアンツに入団。1年目に3度骨折するも、自腹でパーソナルトレーナーをつけて体を整えることから始め、足の速さを活かして1軍で代走のポジションを確立。2008年ゴールデングラブ賞(外野手部門)と日本シリーズ優秀選手賞受賞。「神の足」「代走のスペシャリスト」の異名を持ち、通算盗塁成功率は82.9%で日本プロ野球歴代1位(通算盗塁200以上)。通算盗塁数228は球団史上3位。プロ野球生活20年間の中で通算1130試合に出場し、打率2.65、本塁打20、打点75。16年に38歳で引退し、現在は解説者としてテレビ中継などで活躍するほか、全国で小中学生に野球を教える活動などにも携わっている。著書に『一瞬に賭ける生き方』『Be Ready〜準備は自分を裏切らない〜』

▼鈴木尚広さんの公式HPはコチラ▼
https://suzukitakahiro.com/

 

interviewer

森 啓一●もり けいいち
株式会社フォーカスシステムズ 代表取締役社長。 監査法人、税理士事務所などを経て、1998年にフォーカスシステムズに入社。常務取締役管理本部長兼経営企画室長を務め、11年より現職。

憧れのトップスター軍団へ

森:私も野球観戦が好きで、ワクワクしながら鈴木さんの活躍を拝見していたので、今日はどんなお話が聞けるのか楽しみです! まずは野球を始めたきっかけやジャイアンツに入るまでの経緯を教えてください。

鈴木:父が青春時代を野球一筋で過ごした人で、「男の子が生まれたらプロ野球選手にしたい」という思いがあったから、長男の僕は子ども時代から必然的に野球をやっていました。

家は自営業だったので、幼稚園から帰ってきたら裏のグラウンドで父とキャッチボールです。そうして小学校1年生のとき、リトルリーグの体験入団で誰よりもボールを飛ばせたから、「こんなに気持ちよくボールが飛ぶんだ」と楽しくて。一瞬で虜になりました。

まんまと父の策にはまったのかもしれませんが、それがきっかけでリトルリーグに入り、本格的に野球を始めました。

森:では子ども時代からプロ野球選手を目指していたわけですね。具体的にプロが視野に入ってきたのはいつ頃からですか?

鈴木:プロになりたいという思いはありましたが、それ以前にとにかく野球が好きで強くなりたいという思いが強かったですね。プロ野球に憧れは抱いていたけれど、好きな野球を毎日楽しく続けながら、成長する喜びを感じていました。

高校2年生くらいからいろいろな球団のスカウトの方が見に来られるようになりましたが、正直、「何をしに来ているんだろう?」と不思議でした。僕のいた高校は伝統校ですが、野球は強くないから甲子園出場経験もないし、プロ野球選手も輩出していません。

僕はのびのびやりたい、うまくなりたいという思いのほうが強かったし、「どうせ見に来るだけだろう」という思いがあったから、あまり気にせずやってたんです。 ところが3年生になると色々なスカウトの方が足しげく通ってくれるようになって、「あ、この人たち、本気で僕をとりに来ているな」と感じられるようになりました。

実はすでに大学進学が決まっていたのですが、「大学卒業後にプロになれる保証はない。今、チャンスがあるならプロで勝負してみたらどうだ」という父のひと言に背中を押されました。それで大学を断ってプロに方向転換したんです。

森:では、ジャイアンツからドラフト4位に指名されたときは「やった!」と大喜びですね。

鈴木:ジャイアンツといえば野球のトップブランドだから回りは騒ぎ立てたけれど、僕は嬉しいというより「えっ」と驚いて、ポカンとしていました(笑)。

福島県内ではほとんどジャイアンツ戦しかテレビ放送がなくて、当時は毎晩のように7時から9時はジャイアンツ戦が放映されていました。だから原辰徳さん、中畑清さん、篠塚和典(篠塚利夫)さん――今までブラウン管越しに見ていた人に会いに行けるなと、まるで夢の世界に行くようなふわっとした感じがありました。

森:テレビで見ていた世界と、実際に入ってみたプロの世界で一番違ったのはどんなところですか?

鈴木:そもそも僕は18年実家暮らしだったから、1人暮らしも初めてでした。ずっと守られて生きてきたのに、自分で掃除も洗濯もしなくちゃいけない。野球だけでなく社会人としても新しい世界に踏み出した怖さがありました。

とはいえ、理由があって指名してもらえたはずだから、何とか自分の足をアピールしようと思いました。 ところが、2月の宮崎キャンプに行ってユニフォームを着た松井秀樹さん、桑田真澄さん、斎藤雅樹さん……そうそうたるメンバーの中に入ったとき、ものすごい違和感を感じました。

持っている雰囲気、体格、練習のスピード、パワー、すべてにおいてケタ外れなんですよ。ガケから突き落とされたようにショックで不安が募って。「とんでもないところに来てしまった」という気持ちが頭をよぎりました。あのときのショックは今でも鮮明に思い出されます(苦笑)。

「結果を出す選手」のあり方は先輩から学んだ

森:プロである以上は、そういったメンバーの中でも頭角を現さねばいけないわけですよね。その頃から、足に関しては「いける」という手ごたえがあったんですか?

鈴木:単純に「足の速さ」という面では、若さもあるし、なんとか勝負できると思いました。でも、野球における足の速さは、速さプラス技術や感性も必要です。高校時代も盗塁が多かったのですが、なぜ結果が出るのか考えずに感じるままに走っていただけだから、自分の力のなさを痛感しました。

プロである以上、しっかりした結果を出すためのプロセスを踏まないといけないわけで、自分の中で「1年目から勝負できる」というイメージはほとんど湧きませんでした。

そのうえ、1年目は1年に3回も骨折してしまいました。結果が出る出ない以前に、試合に出られないんです。高いサラリーをもらっているのに、失敗・成功どころか何もできないところからのスタートです。

森:鈴木さんが1軍に上がったのは5〜6年目だと思いますが、「代走のプロ」という珍しい存在で力を発揮しましたよね。ロールモデルがない中でどうやってその地位にたどりついたんですか?

鈴木:確かに「代走のプロ」はほかにいませんでしたが、諸先輩方から「結果を出す選手」のあり方を学びました。

2軍から1軍にあがって一番ビックリしたのは、選手の皆さんが、練習時間の前に来て自分の練習をしていることです。体のケアもそうだし、自分の課題もやっている。控えの選手ではなく、レギュラーの方が、です。 勝負の世界だから、結果を出さなければ外される。この人たちはレギュラーの座にあぐらをかいていないし、結果が出なくても努力を重ねるし、ネガティブなことを一切言わず、常に前を向いて堂々としている。

失敗したとき、それを顔に出したらチームにどういう影響を与えるかを分かっているから、落ち込んでもおくびにも出しません。一人ひとりの孤独感、悲壮感には鬼気迫るものがあって、それを毎日やっている。

「この人たちは、勝負師だ。ただ単に野球をやっているんじゃないな」「結果を出せる人はこうも違うんだ」と感じ、未熟ながら僕も形だけは真似しようと思いました。そこから僕も少しずつ真似をするようになり、できることをとり入れていきました。

森:なるほど、そこが鈴木さんの代走のプロとして成長していく原点なんですね。では、どんな努力をしたのか、どんなふうに変わっていったのかを、次の回で詳しく聞かせてください。

代えのきかない選手になる 元プロ野球選手・スポーツコメンテーター 鈴木尚広氏に訊く【中編】